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ドイツ生活・留学関連コラム

essay
老浮浪者の聖戦

 浮浪者にとってマクドナルド(以下マック)は一つのオアシスだ。風に吹かれることなく、雨に濡れることもなく、快適な室温の中で椅子に腰掛けることができる。しかし彼らが店内に入るのは容易なことではない。マック側だって、浮浪者に居座わられることを警戒している。何も注文しない彼らは、マックにとって明らかに客ではない。にも関わらずテーブルを占拠し、なにより店のイメージの低下につながる彼らを、黙って見過ごすわけにはいかないからだ。浮浪者がその厳しい目をかい潜って、店員の目につきにくい席を得るには経験に基づく勘と、幸運とが同時に必要となる。ライプツィヒ中央駅内のマックに、午前4時の開店と同時に入るのはボクの日課だった。4時間後に始まる授業を前に、そこは宿題と予習をするためのボクの勉強部屋なのだ。およそ1ユーロのコーヒー一杯で4時間も居座るのだから、マック側にしてみれば実はボクも浮浪者とほとんど変わりないのかも知れない。
モーニングセットを注文した客は、ジャムやバターを自由に貰うことができる。しかしそれはあくまで注文した 「お客さま用」なのだ


 ある日のこと、いつものように宿題を広げていると、一人の老浮浪者が店内にやってきた。明らかに何かを注文する様子ではないにも関わらず、彼はカウンターの方へと歩いていく。見るとカウンターに店員の姿はない。彼は警戒しつつカウンターに近づき、置いてあるジャムやバターを手に入れ、何事もなかったように、こちらに歩いてくる。彼のこの行為を盗みと言ってよいものかは少々疑問が残る。というのもハンバーガーの他にマックでは早朝、ハムエッグなどをモーニングメニューとして用意している。ただのパンだけというメニューもあり、バターにジャム、チョコレートクリーム、それにハチミツは、これらに付属するものなのだ。これらはカウンターの上に「ご自由にお持ちください」と言わんばかりに備え付けられている。彼はこれを狙ったのだ。

 テーブルを占拠するだけでも難しいのに、食料まで得ようというのだから大胆不敵。しかしそんな彼にボクは嫌悪感を抱かなかった。というのも、彼は見るからに疲れていて、見るからに空腹そうだったのだ。だから嫌悪するのではなく、むしろ「成功おめでとう」と賞賛してやりたくなった。ボク自身も一杯のコーヒーで長居するつもりの「不良な客」なので、当然にも店内の隅、つまり店員に見つかりにくいテーブルを陣取っている。彼がジャムを手にボクの隣の席に座ったのは何も偶然ではない。むしろ必然的に、彼はボクの隣のテーブルについた。

バターにジャム、トースト用チョコクリームを机の上に並べてはみたものの、いざ食べようと思うと実に食べ難い。戸惑うのも無理はない
 しばらくの間、ボクはまた宿題に頭を悩ませていたのだが、ふと見ると、彼は身動きせずに机の上を凝視している。彼は戦利品である小さなパックに入ったジャムやバターなどを机に並べ、これまたカウンターから持ってきたプラスティック製のフォークとスプーンを手に、ただひたすら呆然と考えている。そうなのだ。食べられそうなものを持ってきたはいいが、いざ目の前にしてみたら、どうやって食べればよいものか悩んでいるのだ。ジャムもバターも、パンなどに塗ってこそ意味もあるのだが、しかし " ソレ " だけでは、いかにも食べにくい代物なのだ。恐らく彼はテーブルにつくまで、そのことを全く考えていなかったに違いない。そしてその、突如降って湧いた問題に真剣に悩んでいる姿が、ボクにはどうにも滑稽に見えて仕方がない。

 笑いをこらえながらも、次にいったいどうするのかと興味深く見入ってしまうのは、何もボクだけが起こす行為ではあるまい。我が愛すべき浮浪者には申し訳ないと思いながらも、ボクは彼の行動を見守ることにした。3分、4分、5分・・・。彼はまだ動かない。彼はおもむろに、そしてゆっくりと大きなため息を一つついたが、その後また石膏像のごとく固まってしまった。端から見れば、ぼぉーっと座り込んだ浮浪者にしか見えないだろう。しかしボクだけは知っている。実は彼の頭は今フル回転していて、空腹と戦いながらも何とか最善策を見出そうと奮闘を続けているはずだ。彼はいま、出口のない自問自答を無限に繰り返している。今日という一日を生き抜くための、彼にとってそれは 「聖戦」 に違いない。

とにかくバターは、「パン」 に塗る。しかし無理やり食べる練習も、時に必要なのだろうか
 しかしその葛藤は何の前触れもなく、あっけなく終わることとなった。机の上に並べられたジャムやバターは、突然現れた樽のような中年の女性店員によって奪い取られてしまったのだ。彼女は大声でまくしたてる。「これは無料じゃないの!いい? これはモーニングセットを注文したお客さんだけが取っていいの。あんたは何かを注文したの?! あんたにはこれを貰う権利なんてないのよっ。そのあんたがこれを食べたら、それは泥棒と同じなの。どおっ?分かったの?! それに、ここはお客さんの席なの。あんたはお客さんじゃないでしょ。だからここには座っちゃだめ!店から出ていきなさい!!」。
 
 縦断爆撃のような店員のけたたましい叫びに、ボクまでも耳を押さえたくなってしまう。しかし当の老浮浪者はというと、彼女の怒鳴り声などまるで耳に入ってない様子だった。目の前のジャムが店員の手にわたった瞬間から、彼の視線は何もない机の上と、店員の手の中のジャムとの間を、しきりに行ったり来たりしている。そう、彼はまだ、いったい何が起こったのかを理解できずにいたのだ。そしてようやく彼の視線が店員の手だけに定まったとき、彼はいかにも悲痛な声で 「おぉ・・・、おぉ・・・」 と声をもらした。そして店員は無常にも、大きなアクションで 「ビシッ」 と出口を指差し 「すぐに!今すぐ出ていきなさい!」 と大声で怒鳴った。

 何が起こったのか、そして今どういう状況に自分が置かれているのかを理解した彼は、いかにも疲れきった面持ちで立ち上がった。出口に歩む彼の姿は、店に入ってきた時よりも遥かによろめいている。彼はいま、一つの戦いを終え、傷つき疲れきった体を引きずるようにして戦場をあとにする。食べられまいとするジャムやバター、それを如何に食べようかと戦略を練り続けた老浮浪者。彼がその戦いに勝利できたのか敗れたのか、ボクには永遠の謎のように思えた。テーブルから出口までの短い距離をフラフラになって歩いていた彼は、店を出る寸前ふと足を止めた。そしてカウンターの上の、山積みになったジャムの方を振り返り、何を思ったのか突然 「ニヤリ」 と微笑んだ。誰かをあざ笑うかのように。そしてまた彼はよろよろと歩き出し、定まることのない家路についた。



2003.01.24 kon.T
in Augsburg

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