渡欧のあらすじ
アウグスブルク

短期滞在の予定だった街、しかし・・・
滅多にない冬の晴れ間。アパートの窓から見たDomは夕日に照らされて美しかった

 ウィーン滞在は最初からサマーコース期間だけのつもりだった。DSH試験に向けてのボクの勉強、その舞台は渡欧前からアウグスブルクと決めていた。理由は安くて内容のよい語学学校を見つけていたからだったが、今回は日本から申し込まずウィーンからメールで交渉した。交渉時点では長期受講の予定だったが、ウィーンを出る直前に状況が一変。ウィーンで意気投合して共同生活していた女の子と、突然婚約してしまうというハプニングがあり、2002年1月からはスイスとの国境・フライブルク Freiburg で一緒に住むことを決めてしまっていた。

 2002年10月1日にウィーンから電車で移動し、学校の紹介してくれた部屋に入居。しかし最低1ヵ月か2ヵ月で出てしまおうと考えていた学校なので、最初のうちはほとんど勉強が身につかなかった。それよりも住宅難で家賃が異常に高騰しているフライブルクで、いかにして安宿を手に入れるか。その難題ばかりが頭を駆け巡り、実際に学校に通うようになったのは10月も末頃だった。しかし12月にはその婚約も破棄。予定は大幅に狂い、・・・というか元の路線にきっちり戻り、ボクはここで7ヵ月間暮らすこととなった。


アウグスブルクの語学学校・ADK
 ボクが当初よりこの学校・ADK-Augsburger Deutschkurs を狙っていたのは、次のような理由だ。まず授業料が安い。そしてDSH専門クラスを設けていること。これは重要だ。しかも学校に入って知ったことだが、この学校ではアウグスブルク大学のDSH試験出題者自身が、講師として参画している。もちろん問題の横流しなどはない (チッ・・・) にしても、出題傾向分析に関しては申し分ない。それに、大都市ミュンヘンから電車で30分の距離にあり、比較的不便はなさそうにも関わらず、物価はミュンヘンと比べ物にならないくらい安い。例えばミュンヘン市内交通機関の基準料金は(確か・・・)2.10か2.40ユーロだったが、アウグスブルクは0.90ユーロ! レストランに入ってみても分かることだが、物価は他都市と比べて比較的安いと言うことができる。
あまり大きいとは言えない中央駅。駅から市内交通の中心 König広場までは徒歩3分

 そして、この学校では授業料を週払いできることも大きい。ウィーンの学校では月極め料金だったので、復習のために1週間休みたいという交渉が難しかった(・・・と最初は思っていた。後日談だが、実はどこの学校でも大抵は週払い交渉が可能である)。それに比べて、はなっから週料金を提示している点で、ADKは望むべき学校だった。最大の問題は 「斡旋している住居はホームステイのみ」 とパンフレットに書かれていることだ。しかしそんな問題は屁でもないことを、これまでの経験からボクは知っている。学校に直接アクセスし、一般アパートかWGを探してもらうよう交渉することも可能に違いないのだ。ボクは月200ユーロ前後(諸経費込み)の部屋を探してもらうように依頼し、結局225ユーロ(諸経費別)の部屋に住むことになった。

 実際のところ、この部屋の出費は少し痛かったのだが、直前の居住者が日本人という理由で学校側が紹介してくれたので承諾した。前の居住者が日本人だと結構ありがたい。移り住む前に街や学校の情報を聞けるし、不要な生活道具を置いて行ってくれるというおまけがある。そんな理由でこの部屋への入居を決めた。しかしこれは後に大変な結果をもたらした。この件に関しては別稿で詳しく紹介しているので参考にして欲しい
ペルラッハ塔とドイツ・ルネッサンス最高傑作と名高い市庁舎

 実際に授業を受けてみて、その内容には十分満足できた。ウィーンの学校では、教員間の争いからか非常に個性的な授業を受けることができた。教科書を一切使わない先生や、文法そっちのけで会話ばかりに重点を当てる教員もいた。それはそれで楽しめはしたが、いざクラスが変ると生徒の進度にばらつきが生じてうまく授業が進まない。教員間の独自性が表面に出過ぎて、教員間の連携という点においては最低だった。まぁそれはサマーコースという状況の生み出した産物かもしれないが・・・。

 これに比べ ADK の教員間の連絡は非常に密で素晴らしかった、またクラスの交換要求も容易に受け入れられた。ウィーンのサマーコースではアルバイト教員が多くなりすぎて、質の悪い授業も多く見られた。しかしADKには一定レベルを下回るような粗悪教員は (滅多に?) いない。まぁ、もっとも・・・、教員間に大きな能力の差がないわけではないが。ADKについては別稿参照


問題点の克服に乗り出す
 ボクのドイツ語の上達速度は正直言って早いとは言い難い。その理由の一つは、やはり年齢的な問題があるだろう。ドイツ語を本格的に始めたのは28歳。これは遅すぎた。それにボクはもともと語学が苦手だし、日本の大学でもドイツ語の講義は選択しなかった。ドイツの語学学校で初めてドイツ語に触れ、当初のボクは言えば、とにかく何もかもが分からないことだらけだった。

 そんなドイツ語音痴なボクにも関わらず、新しい語学学校に入るといつも決まって自分のレベルより高いクラスを勧められる。いや、それは当たり前かもしれない。何故ならボクはいくつもの語学学校を渡り歩き、最初の自己紹介や受講契約といった交渉事には異常なほど慣れてしまっていたのだから。それで、ボクの受け答えを聞いた受付担当者の多くは、ボクの語学レベルを完全に見誤ってしまうのだ。
アウグスブルクn見どころの一つ、世界初の社会福祉住宅・フッゲライ。豪商フッガー家が建造した高齢者用住宅。創建の趣旨を踏襲し、年間家賃はたった1.75マルク(約85セント)。現在も高齢者が実際に生活している

 そうやって上級クラスを勧められた時のボクは。大抵気を良くしてしまう。、「ボクってドイツ語できるジャン」 などと手放しに喜んでしまっていた。そしてその勧めを簡単に受け入れて上級のクラスに入り、結果としてボクは授業の中でもがき苦しみ、早々に落ちこぼれてしまうという流れを繰り返していた。そしてアウグスブルクでも、ボクは同じことを繰り返してしまった。

 アウグスブルクに来て3ヵ月目。またもや授業が分からない。しかし何故こんなにもボクはドイツ語を理解できないのだろう、とボクはここに来てまた悩み始めた。最大の理由は単語不足だった。例えば1000ワードの文章を読もうという時に、いったい何ワードの単語が分からなくても許されるだろうか。意見はいろいろあろうが、ボクのように700ワード以上の単語の意味が分からなくては、その文章を理解するなんて到底不可能だ。確かに長期間ドイツで習ってきたさ。それは無駄ではなかったが、単語不足だけは他の技術で補いようがない。

 上達が遅れた理由としてもう一つ、ボクが宿題に時間をかけ過ぎたことが上げられるだろう。単語力不足を克服することもできずに宿題を真面目にやり続けると、宿題の単語調べだけに一日の大半を間を費やしてしまうという状況が発生する。しかも自分のレベルより常に高いクラスにいるから、新出単語の数が異常に多い。下手をすると翌日の朝になっても、宿題どころか単語調べさえ終わっていないという状況に陥ってしまう。

 そうなると結果的に復習時間が削られ、イマイチ理解しきれなかったところを置き去りにしたまま、次に進んでしまうことになるのだ。初期のボクはひたすら宿題に明け暮れたが、その前にやらねばならないことがあることに、ボクはアウグスブルク在住3ヵ月目に気付いた。ボクは基礎クラスから今まで復習し切れずにいた文法を、本格的に総ざらいしようと決意した。
中央駅前のマクドナルド。「1限目の自習時間」 は毎朝ここで始まった。写真の向かって右側、窓際に面したカウンターテーブルの右端が、ボクのいつもの指定席だった



再びマックの日々
 毎朝6時、開店と同時に中央駅前のマクドナルド(以下マック)に入る。99セントのカプチーノを一杯だけ注文し、中央駅が正面に見える窓際の席に腰掛ける。大抵は午前11時30分まで文法書とにらめっこし、ひたすらノートにまとめ上げる。ボクがいつも苦々しく思うのは、どの文法書も 「舌足らず」 なことだ。みな月並みなことが書かれていて、細かいところに触れられていない。だから複数の文法書を開いては並べ、自分なりにまとめてみる。過去に一度まとめた文法も、また別の方法でまとめてみる。以前のまとめとは別の角度から何度も何度もまとめているうちに、次第にその骨格が見えてくる。そうなるまで、ひたすら文法の理解に時間を費やした。昼近くになるとマックは混み始める。その時間を避けるため、ボクは一度自分の部屋に戻り昼食をとる。マックでは何も食べず、昼食の為に自室に戻るのだから本末転倒だ。しかし安く上げるには、こうするしかないのだ。

 午後2時過ぎにはまた家を出て、別のマックへ。何しろ当時のアウグスブルクには市中心部にマック4店舗のほか、バーガーキング(以下バーキン)まであったので勉強場所には事欠かない (2003年春にマックが一店舗消滅)。そこでもまた、一番安い商品であるカプチーノを注文し、ボクの 「2限目の自習時間」 が始まる。2限目は大抵単語の時間で、過去のテキストから重要そうな単語を拾い上げては辞書で調べ、単語帳を作り、一つづつ暗記することに専念した。勉強に疲れたら持参のMP3プレーヤーでドイツ語オペラを聞き、あるいは日本製アニメのドイツ語版DVDから録音したセリフを聞きながら休む。そうやっていつも午後6時過ぎまでは、単語カードにイジメられながら座り続けた。
市内交通機関が集中するKönigsplatz。しかし定期券を買わなかったボクには、ほとんど縁のない場所だった

 午後7時ごろに部屋に帰りついて食事をとり、パソコンを触って気晴らしをした。そして午後9時ごろにはまた部屋を出て、マックかバーキンで 「3限目の自習時間」 の始まりである。この時間にやっていたのは主に文法の続きと作文だった。作文を書いても誰も添削してくれないのは問題だったにせよ、自分が言いたいことを自分の言葉で書いてみるという試みは重要に思えた。口癖とか、よく使う言い回しというのは人それぞれ違うものだ。自分が日本語でよく使う言い回しを再確認し、ドイツ語ではそれを何と言うのか、それを表現するにはどんな単語を知らねばならないのか、ということに主眼を置いていた。しかし3限目は短い。マックもバーキンも午前1時まで営業していたが、午後11時半か12時には切り上げるようにしていた。何しろ翌日の朝6時には、また嫌いなコーヒーを飲まねばならないのだから。

 アウグスブルクでのボクは市内交通機関の定期券を一度も買わなかった。それは単純に節約のため。だから部屋まではいつも歩いて帰るのだが、考えてみればこの時間が一番楽しかったように思う。この時間だけは単語カードとおさらばし、冬の夜風に吹かれながら夜空を眺めて歩いた。一日のうちで最も気の休まる時間が過ぎると、部屋で泥のように眠り、そして4時半に起床。また1日が始まる。

 この生活はもちろん楽ではなかった。ウィーンで知り合った友人が遊びに来ていた12月末から1月初旬の2週間を除けば、アウグスブルクでの多くの時間をこんな調子で過ごしていた。ボクはアウグスブルクに7ヵ月間住んだが、実際に学校に通ったのは4ヵ月間に過ぎない。学校に行かなかったという事実のみを見れば 「不良な語学生」 と言われても仕方がないが、この間の学習効果は高かった。毎日毎日、朝も夜も星を眺めながらマックに通った。だからボクにとってアウグスブルクのイメージは、今なお 「夜の街」 である。


アウグスブルクで出会った三人の魔女たち
モーツァルトとその父・レオポルト・モーツァルトが過ごした家がある。レオポルトの生家でもある 「モーツァルトハウス」 は大聖堂のそばにあり、一般にも公開されている (上の写真では真中の建物)

 10月にアウグスブルク入りし、年明け2月頃までは勉強に明け暮れていた。しかしその生活でストレスが溜まらないがわけはない。2月中旬頃だったろうか、廊下を挟んで自室の斜め前の部屋に引っ越してきた日本人 Kiyoe さんと頻繁に話をするようになったのは。初めのうちは挨拶程度でしかなかったが、ソプラノ歌手を目指す Seiko ちゃんが彼女の部屋に足しげく通うようになってからというもの、我々の友好関係は一気に深まることとなった。

 ところで、ドイツに来て知り合った日本人たちは、ほぼ90%以上が女性だ。彼女らがドイツに来たいきさつは実に多様。それは男性でなく 「女性であるからこそ」 なのかも知れないが、ここで知り合った2人もまた幾多の紆余曲折のうちにドイツに流れ着いていた。Kiyoe さんは語学研修やワーキングホリデービザなどを使って、既に2年ほどのドイツ生活経験がある。アウグスブルクでの生活は、日本での生活に疲れた彼女の、いわばモラトリアムのようだった。Seiko ちゃんはドイツの音大を目指し、10月に初めてドイツにやって来たそうだが、日本の音大のツテを頼ってきたわけではない。いわば一匹狼のような留学で、語学を学びつつ、自分の師となる声楽の先生を探し続けていた。更にそのつぎに現れたのが Nana ちゃんで、彼女は英語も堪能なうえ、いきなりやって来たドイツでの勉強も好調。既にかなり話せるようになっていた。彼女の渡独理由は未だに理解できないのだが、まぁとにかく彼女はドイツの大学に入る気もなければ、ドイツ語が必要でドイツに来たわけでもない。日本では建築士の資格も持つという、何がなんだかよく分からないお方だった。

 ボクはマックでの勉強を続けていたものの、勉強の合間には三人がほぼ毎日のように集う Kiyoe さんの部屋を訪れるようになった。ボクは自慢がスパゲッティを振舞うと、次回は料理好きの Seiko ちゃんが何やら手の込んだ料理を作ってくれる。Kiyoe さんは毎度毎度、色とりどりのサラダを用意してくれるし、時には抹茶を立ててくれたりもした。Nana ちゃんはと言えば 食後にティラミスを作ってきてくれたりとまぁ、4人がそれぞれに食事を用意しては3日に一回は集っていたので、この時期の健康状態はすこぶるよかった。またドイツ語ついても一人で黙々と進める学習から抜け、文法書だけでは分からない部分を三人と話し合ったりと、非常に充実した日々を送ることができた。

 ところでこの時期、ボクのドイツ語はまだDSHレベルには程遠かった。当然にも大学の募集要項や願書の話など、ボクにとってまだ身近なものではなかったが、Seiko ちゃんはと言うと既に出願情報の収集に入っていた。彼女のドイツ語もまだ堪能ではなかったが、彼女ら音楽科の学生を目指す人達にとって重要なのはあくまで実技であって、ドイツ語に関してはそれほど高い能力を要求されないらしかった。それでボクらは Seiko ちゃんの大学調べやら、願書記入や履歴書の記入などを手伝ったのだが、この過程はボクにとっても非常によい勉強となった。

 この原稿を書いている2004年4月までに、ボクは17の大学に対して願書を出した経験を持つのだが、限られた時間の中でいざ自分の願書を書くというのは非常に疲れるものだ。やることだらけで目が回る。もし自分の周りの人で願書を出そうとしている人がいれば、率先して手伝ってみるべきだと知ったのはこの時だった。願書も履歴書も本屋に行けば大抵書き方の教則本を手に入れることができるが、問題は日本での履歴をドイツ語にどう訳すか。人によっては辞書には載っていないような経歴をドイツ語で書きたい人もいるのだ。この経験で、ようやくボクも「大学」というものが身近なものに感じられるようになった。


志望校の決定、そして引越しの決意
 渡欧からこっち、長らくボクに付きまとっていた重大な問題は 「どこの大学に入るべきか」 である。ウィーンでもライプツィヒでも、ボクは積極的に日本人を探し、どうやって志望校を決めたのかを尋ねて回っていた。大抵の日本人は大学間の交換留学であったり、教授の推薦などによって志望校を決めていたが、しかしボクには推薦してくれる恩師も、そもそもボクが進みたい「社会学」という学問を知っている友人さえボクにはいなかった。語学学校で知り合った外国の友人も、そして日本人も友人らも、ボクが志望校を決めるためのヒントを与えてはくれなかった。そんな時期が長く続いたことで、志望大学の決定はもっと先になってから考えようという気になっていた。それは投遣りにも近かった。
マックへ通うのは毎日の日課だった。激しい雨が降ろうと、凍てつく雪が舞おうと、ボクの中でそれは絶対の決まりだった。


 しかし Seiko ちゃんの出願を手伝ったことは、ボクにもう一度志望校を考え直させるきっかけとなった。ボクは考えに考えた結果、ハイデルベルク大学を第一志望にすることにした(この理由に関しては別稿参照)。しかし自分はいまアウグスブルクに住んでいる。そして語学学校はアウグスブルク大学のDSHを受けることを前提に、カリキュラムを組んでいた。ボクにアウグスブルク大学に入る気はない。とにかくハイデルベルク大に入りたいのだ。そう思ったら、もはやアウグスブルクに居続ける意味を失い、ボクは3月末でアウグスブルクを出て4月からハイデルベルクの語学学校で学ぶことを決心した。

 思い立ったが吉日と、ボクは即ハイデルベルクへ向かった。大学付属機関の語学学校に入れるよう直接申し込もうと思ったからだ。しかし行ってみると空席なし。かなり粘ってお願いしたが功は奏さなかった。仕方なく大学の外国人学生課に行き、市内でドイツ語を学びたい旨を申し出て、語学学校を紹介してくれるようにお願いした。最初 「ここではそんなもの紹介できない!」 と言われたものの食い下がって粘り勝ち、半ば無理矢理に 「ハイデルベルク語学学校全リスト」 を手に入れた。

 ボクはリストを元にインターネットで詳細を調べ、授業料・月400ユーロ以内の学校を抽出。結局6つの学校へ直接足を運ぶことにした。授業内容だけでなく事務の対応の良さ、生徒らの印象、掲示板内容など、厳しい目で学校をチェックした結果、2日目にボクにとってベストな学校を見つけることができた。ハイデルベルクには計3日間滞在し、ボクはアウグスブルクに戻った。

 学校にはわけを話し、引越しにあたりボクの部屋の新しい住人を探してもらうことをお願いした。ところが、この件に関しては別稿を参照して欲しいのだが、とにかく次の入居者が見つからないために、次の語学学校に申し込んでいた入校期日3日前になっても引越しの目処が立たなかった。結局ボクは滞在を4月末まで延長し、引き続き住み続けることになった。そうこうしているうちに4月3日になり、とうとうボクは30歳になった。

そしてようやく引越し
 とうとう春。日本の大学生が短期留学にやってくる季節になり、4月になった途端 ADKにも3人の日本人が入ってきた。そのうちの一人 Maiko ちゃんと話をつけ、ようやくハイデルベルクに行けることが決まった。

 実はこの時すでにハイデルベルクの部屋は契約されていて、ボクは同時に2つの部屋を借りていることになっていた。ハイデルベルクの学校は5月から始まる。アウグスブルクの部屋も4月末まで借りているから、引越し期限まではまだ3週間もある。今までのような文法書ばかりにかじりつく生活を少し改め、ここにきてようやく街を見てみようという気になった。マックに行く時は必ずデジタルカメラを持参し、行ったことのない路地裏を歩く。こんなに落ち着いた気分になれたのは久しぶりだった。ボクは今までに4都市で勉強したが、その街々の観光名所を見て歩くるようなことはほとんどなかった。「住んでいるんだから何時でも行けるさ」。そんな気持ちが常にあって、結局どこの街も、見るべきものも見ずに引っ越すことになってしまっていた。そんなボクもアウグスブルクで、ようやく街を見て歩こうと思えるようになった。それはつまり、ボクの中にようやくゆとりが生まれたということだろう。
カトリックとプロテスタントが和解した「アウグスブルクの宗教和議」を記念して建てられたウルリッヒ&アフラ教会。旧教と新教の教会が密着し一つの教会となっている


 さて、引越しの荷物は結構な量になっていたが、時間に余裕のあるせいで引越しの方はそれほどバタバタせずに済んだ。当初は郵便小包で送るつもりだったが、本が多いため結構重い。郵送料を計算した結果、荷物を鉄道で運ぶ方が安上がりなことに気付いた。ボクは Schöneswochenende Ticket という国鉄の週末乗り放題チケット(ただし週末のうち一日のみ使用可、翌朝午前3時まで有効) を利用して、アウグスブルク - ハイデルベルク間を3往復することにした。

 ボクは国鉄料金が50%割り引きになるカード(Bahn Card)を持っているので、まずはこれを使って片道切符を買い、第1陣の荷物を担いでハイデルベルクへ。学校へ行って部屋のカギをもらい、布団のない部屋でこの日は早々に眠った。翌朝始発のバスで中央駅に行き、朝6時半頃に出るシュトゥットガルト行きに乗車。シュトゥットガルトで乗り換え、更にウルムで乗り換える。2回の乗り換えの末、アウグスブルクには約5時間で到着した。すぐさま部屋に戻り、第2陣の荷物を担ぎいで次は12時過ぎに発車する電車に乗り込む。午後6時半頃ハイデルベルクの部屋に着き、部屋に荷物を置いて取って返す。そして今度は午後8時頃に発車する電車に飛び乗る。夜中は電車の本数が少ないが、午前3時過ぎにアウグスブルクに到着する最終便でギリギリセーフ。 Schöneswochenende Ticket を早朝から深夜まで、フル活用した輸送だった。

 しかしまだ荷物は運びきれなかったが、次の週末にもう一往復だけしてようやくほとんどの荷物を運び終えることができた。体力的にはかなり疲れたが、料金は郵送するより遥かに安くついた。あとは全てを引き払って部屋を出るだけ。そう思うと、7ヵ月間の思い出が脳裏を過った。


アウグスブルク(1)総括
 アウグスブルクでの生活の前半、それは悲しみの連続だった。まずは前出の婚約を解消した。そしてその悲しみからようやく立ち直れそうになった12月、幼い頃からボクの面倒を見てくれていた、ばぁやが亡くなったという知らせが届いた。死に目に会えなかったどころか、今こうして原稿を書いている2004年4月現在も未だドイツにいて、墓参りさえ果たせずにいる。

 放心状態の日が続いた。少し気分を取り戻せたのは、訃報から1週間くらいしてからだった。マックにはまた毎日通うようになったものの、それはただ悲しみから逃れるための行為だった。もはや余計な事は何も考えない。ひたすら機械のように、ボクはドイツ語テキストにかじりついていた。あの頃ボクは確かにマックに通っていた。しかし部屋から店まで、どこをどうやって通っていたのか全く記憶がない。覚えているのは、ただマックで勉強していたことだけだ。

 そんな辛い状況から立ち直れたのは、やはり友人らのおかげだろう。以前ウィーンで知り合った S さんが、年末から年始にかけてボクの部屋に居候していた。彼女は 「旅行」 と称していたが、ボクの惨状を見かねて来てくれたのだろうと思う。また彼女がベルリンに帰ってすぐ後には、例の3人の魔女達と仲良くなった。彼女らもまた、弱り切ったボクの力になってくれた。海外で一人暮ししていて不安になるのは、何も健康面ばかりではない。精神的ダメージを受けた場合の復帰方法だ。もちろんそれは母国に住んでいる場合であっても同じ事が言えるだろう。しかし自分では浮上できない状況に陥った時、海外では完全に孤立してしまうことになる。そんなピンチを助けてくれるのは、やはり友達しかいない。

 「外人」 というカテゴリにくくられた、あらゆる面で制限の多い生活を余儀なくされる我々留学生には、助け合える仲間の存在が必ず必要なのだと痛感した。

2004.04.23 kon.T


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