渡欧のあらすじ
ライプツィヒ

夢にまで見たライプツィヒ
 日本で働いていた頃は、「成功する留学」 という語学学校カタログの最新版が出る度に買い、新たなる留学に夢を膨らませていた。そして当初から行きたいと思っていた語学学校、それが ライプツィヒ・ヘルダーインスティテュート Inter-DaF だった。この学校で勉強することを、ボクは何度夢に見たことか。辛い仕事をしながらも、ライプツィヒのことを考えて頑張り続けてきた。
東西統一から10年以上経過しても残る戦争の爪跡。建物全体が銃痕だらけ。巨大な銃痕は機関銃ばかりではないことが分かる。Straßenbahn Linie 12
東西ドイツ統一後すでに10年以上経つというのに、街外れには銃痕が生々しく残る廃墟が健在

 この学校を選んだ理由は、語学学校カタログの中で授業料が比較的安かったこと。また1クールは4ヵ月間ぶっ通しの授業で、ドイツ語を体系的に教えてもらえるのではないかという期待もあった。そして何より、大学に入るための語学教育専門。また同校に入れば在学中はライプツィヒ大学生に近い待遇を受けられる。何しろこの学校はライプツィヒ大学の一機関なのだから。

 ウィーンの語学学校終了後、しばらくはチェコの首都プラハに滞在した。それもまた楽しい毎日だった。ところが続いて訪れたライプツィヒは、ボクにとって最初から陰鬱な街だった。東西統一後10年以上経つというのに、動物園は当時まだ修復されていずボロボロのままだった。美しいのは中央駅周辺くらいで、街外れに行けば銃痕が生々しく残る廃墟もそのまま放置されていた。これはその後ボクが訪れた2003年2月現在も、依然そのままだった (建物写真参照)。街中では工事が続いていて、それまでにボクが訪れた都市とは一線を画していた。まさに陰惨・陰鬱という言葉が適当かとボクには思われた。

全8ヵ月の教育プログラム
 この学校は基礎クラス4ヵ月、中級クラス4ヵ月の計8ヵ月。初級終了テストの上位者はライプツィヒ大学の Studentkolleg への道が開かれている。授業料はなんと無料。しかしこれは狭き門で、全生徒の数%に過ぎない。普通は同校の中級クラスに進み、中級終了試験に合格すれば DSH合格と同等とみなされ、ライプツィヒ大学への入学が可能となる (他州の大学への入学を希望する場合は、別にDSHなどの試験を受ける必要がある)。

 この学校の授業について行くのは本当に大変。まず朝8時から授業が始まるだけでなく、宿題の量が半端ではない。要領のいい人なら2時間程度で終わるのか
ヨーロッパ最大級の中央駅。再建によって内部は大規模ショッピングモールになっている。
ヨーロッパ最大級の中央駅。再建によって内部は大規模ショッピングモールになっている
もしれないが、ボクを含めた多くの知人は毎日4時間以上を費やせねばならなかった。ちなみにボクのクラスの先生は、もし生徒が宿題を忘れでもしたらカンカン。ボクが忘れたと告白した時、先生はまず絶句。そのあと何故忘れるに至ったのか真剣に問い詰め、最後には 「もう一度忘れた二度と学校に来るな」 とまで言われてしまった。他にも授業中に判らない単語があって質問したら、先生は目を丸くして 「何故分からないの?! だってこれは2巻目の教科書の Lektion 3 の xxページに出たはずでしょ! 何故覚えてないの!!」とまぁ、大変な勢いでしかられてしまった。それよりボクは、各単語の新出ページまで覚えている先生が偉いと思った。これも担当となった先生によるのかもしれないが、少なくとも旧西独エリアの学校とは明らかに異質な感じがした。

 4ヵ月後の終了試験には、かなりの生徒が不合格となるようだ。重箱の隅をつつくような問題も多く出題されるところを見ると、明かに 「振り落とすためのテスト」 なのだろう。中級クラスの終了テストは更に極悪らしく、合格する生徒の方が遥かに少ないらしい。理由はいったい何なのだろうか? テストが難しすぎるのか、教育方法に問題があるのか? どちらにしても、受講者の多くが落ちるような教育機関をボクは認めたくない。特にボクの場合は3ヵ月目あたりから成績が落ち始め、4ヵ月目には落ちこぼれグループに入っていたので、よけいネガティブに考えてしまうのかもしれないが・・・。

 しかし逆に、この学校の授業についていける人にとっては非常にいい学校となりえるだろう。ここのテストにパスすれば、恐らくかなり正確なドイツ語が話せるはずである。しかし面接試験には要注意。友人から聞いた話だが、極めてドイツ語のうまい生徒が最終試験に臨んだ時のこと。彼が流暢なドイツ語でライプツィヒの悪いところを並べ立てたら、彼は試験に落ちてしまった。彼のドイツ語はほぼパーフェクトだったらしいにも関わらずだ。これが旧西独だったら、合格しているはずである。不平不満も、個人の純粋な主張。語学試験ではその内容ではなく、いかに正確にドイツ語を使いこなせるかを判断すべきだろう。ライプツィヒを誉め、ご機嫌をとらねば受からないような 「気分屋」 のテストを受け入れたくはないものだ。もちろん、この学校の支持者も多いに違いない
東西ドイツ統合の発端は、このニコライ教会に集まった人々のデモから始まった。エキゾチックな内装が美しい
東西ドイツ統合の発端は、ここニコライ教会に集まった人々のデモから始まった。
。ボクの言うことはあくまで 「落ちこぼれの不平」 であって、その評価もまた一方的かもしれない。しかしこれも、経験者であるボクの純粋な感想である。

 授業は一日に3コマあって、それぞれ先生が違う。だから各クラスに Hauptlehrer (主教員)、Zweitelehrer (副教員)、Drittelehrer (第3教員)という3人の先生がいる。これは恐らく、一人の先生が勝手に突っ走ってしまったり、あるクラスだけが極端に遅れたりしないよう調整するためのシステムだと思う。事実、ボクのクラスの第三教員は他のクラスの主教員、副教員は他のクラスの第3教員、などでありそれぞれの進度の調整が測られていた。

 一般の語学学校は市販の教科書を使うが、この学校では初級・中級クラス共に教科書は特製品。初級クラスは3巻に分かれていた。一般の教科書とは編集方法が全く違う。他の学校で挫折したり気分を変えたい人には打ってつけかもしれない。(恐らくいつも)2ヵ月ごとに新しいクラスが始まる。常に2ヵ月ずれたプログラムが発生するので、落ちこぼれた場合は1ヵ月ではなく2ヵ月分後戻りすることになる。この辺は融通がきかなくて辛いところだ。

新しい仲間と懲りない面々
 さて、ボクが入学した2001年10月の初級コースには、ボクを含め3人の日本人がいた。ドイツへの留学生といえば、大抵は女の子。しかしこの時は驚くべきことに日本人の男3人が集まってしまった。変わり者の20歳チェリストと、慶応出身のジゴロ26歳、それにごく普通人間のボク。二人とも個性的で愉快だったが、ジゴロとは特に息が合った。それで当初はほぼ毎日のように飲んでいたのだが・・・、ある日大喧嘩になってしまった。
そびえたつ要塞のような建物は新市庁舎。旧独最大の商業都市であったというのもうなずける威厳だ
そびえたつ要塞のような建物は新市庁舎。旧東独最大の商業都市を垣間見る威厳だ

 その後は少し険悪な状態になりもしたが、再び一緒に飲むようになった。それからは大抵、午後6時ごろにどちらからともなく夕食に誘い合い、7時ごろまで仲良く話し、9時までに意見の相違から言い合いが始まり、10時ごろに一度店を変え、ついにはマクドナルドの閉店する午前2時ごろまで怒鳴りあい、最終バスのバスの時間に合わせて停戦という毎日を送っていた。ちなみにボクは自室で仮眠した後、朝4時半に開店後間もない中央駅のマクドナルドに席を陣取り、残りの宿題を始める。そのまま一杯のコーヒー(1ユーロ)でねばり、7時45分に学校に向かうというハードな日々を送っていた。このジゴロ君とは本当に喧嘩の毎日だった。しかし思想は180度違っていたにも関わらず、お互いが認め合えていたという点で実に有意義な関係だった。ちなみに喧嘩の内容は、世界経済や宗教、思想について。今考えると、よくもまぁそんな小難しい話で真剣に喧嘩し合えたものだと驚いてしまう。

 さて開講2ヵ月後の12月、チェリストとジゴロが色めいた。新しいクラスが開講する。そこにまた3人の日本人が来るらしい。しかも3人が3人とも女の子。モテモテ (死語) のジゴロどころかチェリストまで ノリノリ (死語) だった。一方ボクは無関心だったが、それを横目に彼らは全力で女の子争奪作戦に奔走していた。更にその作戦にはジゴロの友友人であるウズベキスタン人、ウクライナ人も参入したらしく、ジゴロは 「私はあなたに一目惚れしてしまいました。一緒に食事でもしませんか」 、「電話番号を教えてもらえませんか」 などというどうでもよい日本語を、彼らに徹底的に教育していた。しかし12月も末になると、どの子もなびいて来ないどころか警戒され始めた事に嫌気がさしたらしく、彼らにもまた平穏な日々が戻ってきた。
InterDaF のBerlinerstr. 校舎そば Nordplatz。この教会のデザインが好きで何度となく足を運んだ。
学校のそば Nordplatz。この教会のデザインが好きで何度となく足を運んだ。


(余談だが・・・)
 一方そんな時ボクの方に、インターネットの接続に困惑していた日本人の女の子二人から電話がかかり、結局ボクが了解して一切合財を設定することに。そんなこんなで、我関せずだったボクの方が彼女らと親しくなってしまい、ボクがライプツィヒを去る時には部屋に呼んでくれて、手料理をふんだんに振舞っていただいた (ゆみこちゃん、さよちゃんありがとう・・・)。この時ボクは初めてジゴロに勝った心地がした。ふっ・・・。(-o-)y~~~

通貨変更、そして便乗値上げの嵐
 2002年1月1日、とうとう通貨切替。ドイツ・マルク(DM)、オーストリア・シリング(ÖS)は、ヨーロッパ統一通貨・ユーロに変わった。通貨自体は前年12月、 「スターターキット」 として先行交換が行われ市中に出回ってはいたが、通用はこの日から。ボクは買い物のお釣りとして受け取ることで、この通貨を初めて手にした。レートは 1 Euro = 1.95583 DM 。およそマルクの2倍の価値と考えればいいので、 1Euro = 13.7603 ÖS のオーストリア・シリングより分かりやすくて助かる。

 ボクはドイツ語の勉強のため、一日の多くの時間を中央駅のマクドナルドで過ごしていた。1日最低5時間はいたし、有料だが美しくて広々とした駅のトイレ 「マックリーン」 も、ボクにとっては気分転換の重要な場所であった。マックリーンは12月31日まで大は1DM、小(小便のことね) は 0.50 DM と料金設定されていた。しかし通貨切替によって翌日から 大は1.50ユーロ。マルク換算すれば料金は3倍に値上がったわけだ。異常な便乗値上げである。

 マックリーンほどではないにしても、便乗値上げは全国的だった。例えば学校そばに毎朝売りに来ていたホットドックの屋台も同じ。それまでは 3DM だったのに、
1556年建造の旧市庁舎。夜のライトアップが美しい。現在は市歴史博物館
1556年建造の旧市庁舎。夜のライトアップが美しい。現在はライプツィヒ市歴史博物館
ユーロになったら 1.70ユーロ になった。マルク換算で 0.40 DM (当時は25日本円 / 1DM = ¥60~70)の値上げである。しかし値上げ自体は違法ではなかった。移行期間中はユーロ、マルク共に使用できたが、この二重通貨という面倒な計算にかかるコストとして、多少の値上げは許されることになっていた。

 しかしもちろん、移行期間中であっても旧来通りマルクで支払えば価格も旧来通り。これは当たり前で、いままで通りなんだからコストがかかるはずなんてないのだから。逆にユーロで受け取る時は、数%価格を上増ししてもOK・・・、と本来はそういうお話のはずだった。ところが、値上げは数%どころか数十%も当たり前。マックリーンは3倍だし、前出のホットドッグ屋も2割増し。しかもこのホットドッグ屋、ユーロで払うとマルク換算で 0.40 DMの値上げ。しかしマルクで支払っても 0.40 DMの値上額げだった。つまりユーロ支払いによる面倒料ではなく、明らかな便乗値上なのだ。

 後に友人らからも情報を集めたが、これはライプツィヒだけでなく、ウィーンでもミュンヘンでも、アウグスブルクでもそうだったらしい。日本で消費税がはじめて導入された時は、便乗値上げが絶対に起こらないよう何重もの対策が練られた。この違いはいったい何だと、ボクは長く頭を抱えた。

脱落、そして一時帰国
 この学校の授業ではひたすらドイツ語を積め込まれた。しかしついにボクの許容量も限界となり脱落してしまった。この時までに脱落していたのは、ボクのクラスには既に17人中6人くらい居ただろうか。4ヵ月目後半 「あぁ、もうついて行けない」 と心底思った。特にクラスの主教員に嫌われてしまったらしいことが最大の痛手だった。このままここにいても、ほとんど得るものはないだろう。そう思った頃、日本で以前勤めていた会社との間に問題が発生し、丁度良い時期だと考え終了試験も受けず早々にライプツィヒを去ることにした。それはヨーロッパ在住6ヵ月目のことだった。

ライプツィヒ総括
 この原稿を書いている現在 2003年10月現在、ボクはヨーロッパで6つ目の語学学校に通っている。これまでの経験から考えて、誰にとっても自分には合
中央駅や観光名所に出没する人力移動ホットドッグ・スタンド。ガスコンロからグリル・パン、ガスボンベまで背負う重労働。
わない学校というものがある。他人から良い噂を聞いたとしても、自分にもその学校のシステムが合うか否かは別問題。そしてライプツィヒの Inter-DaF は、ボクにとって全く合わない学校だった。いい思い出はほとんどないと言っていい。しかし 「無理矢理積めこまれるハードな授業」 というのを一度体験してみたことは、ボクにとって大きな収穫だったと思う。

 街自体も、最初到着した瞬間からボクには息苦しかった。のちに気付いたことだが、第一印象が悪かった街に住んでみて、その後印象が良くなった街はない。少なくともボクにとっては・・・。例えばアウグスブルクという街についた時に感じた第一印象は 「可も無く不可も無くかな」 だった。ボクはこの街に7ヵ月住んだが、引き払うときにも同じことを考えた。「可も無く不可も無くだった」と。ウィーンは最初から最後までいい街だったし、ライプツィヒは最初から最後まで嫌な街だった。

 もちろん、地元の人と知り合うことができるような状況にあったなら、少しは変わったのかもしれない。しかし語学学校に通い、知り合いは外国人ばかりで、知り合っても別れが早い。そんな環境下で、街の印象そのものが最初とその後で変化することはあまり無いと思う。語学を学ぶのに重要なのは、何も学校の良し悪しばかりではない。生活環境、友人関係、クラスメイト、そして街の好みしかりである。気に入った街に住んでいるかどうか。それも精神面では重要な要素であることに、ライプツィヒでの経験を通して知った。

 また4ヵ月で1クールというプログラムにも苦しめられた。もし1ヵ月目にして落ちこぼれたら、次の月には何もできない。もし普通の学校なら同時期にいくつもの違うレベルのクラスが存在するので、自分に合ったクラス選択が常に容易である。要領が良く、落ちこぼれた経験など無いというエリートには分からない悩みかもしれないが、早々に落ちこぼれてしまったために何もできないで指をくわえている生徒を何人も見た。確かに長期間一貫教育というのは無駄が無いように思えるが、実はそこに大きな落とし穴もあるのだ。


2003.10.11 kon.T


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