さて、どこで研究する?
小学生の頃からの疑問を解くべく大学に進学したものの、日本の大学4年間でその答えは得られなかった。大学院進学を決意したのは大学3年の時。しかし大学院に入ったら得ようと思っていた奨学金は、両親の年収の問題で給付対象外に。院入試の面接では、どこの大学院の教授らもボクの研究対象に興味を示してはくれなかった。もう仕方ない。本当に勉強したいなら海外しかないのだ。そう考えたとき、過去の些細な記憶が蘇った。「そういえば・・・、ドイツの大学は授業料がタダだと、多分聞いたような気がしない・・・、でもない
!!」。とにかくボクにはお金がないのだ! ドイツしかない! 再びドイツだ!!
留学費はどうする?
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住んでいたウィーン大学学生寮の最寄バス停。寮には約1200人の学生が住んでいた |
ドイツの大学は授業料がタダだといっても、生活費はどうする? 調べた結果、大学に入学した後はどうやらバイトも多少できるらしい。ドイツは夏ゼメスターと冬ゼメスターの2学期制。とにかく語学学校に通って語学試験に受かり、大学に入って1ゼメスターの間は預金で食いつなぐ。2ゼメスター目からアルバイトで生活費を捻出しよう。語学学校に最悪2年間通うとして、大学でもう半年。占めて2年半分の生活費を、まずは日本で稼がねばならない。その額はざっと計算して380万円。この額はかなり・・・、デカイ。
大学卒業後の最初の1年間はアルバイトに精を出したが、預金はほとんどできなかった。仕方なく、まとまった金を稼ぐため3年間だけ就職することを決意。初めての就職活動は、大学を卒業して1年後の1998年、24歳の時だった。とりあえず新聞記者という職にありつけ、ここで3年間、いや予定より少し長くなって正確には3年4ヵ月間働いた。貯めた額は400万強。しかしそこから留学に必要な品々、例えば新しいノートパソコンなど買いこんでしまい、実際に留学に使える金額は少し減ってしまった。しかしとにかく、再びヨーロッパへ行く準備は整った。
さて、ドイツ語を学ぶと言ってもどこに行くべきか。これは問題だ。今回はミュンヘンに行った頃と違い、情報は豊富。この時は
「地球の歩き方」 シリーズで有名なダイヤモンド社が出版している 「成功する留学」
シリーズのお世話になった。この本の中からボクはウィーンとライプツィヒの語学学校を選んだ。
ウィーンの語学学校へ
2001年、28歳の夏。名古屋空港からマレーシア航空でフランクフルトへ。直接ウィーンに飛ばなかったのは、単に飛行機の席が取れなかったに過ぎない。ウィーンへはフランクフルトから電車で移動。なんと自分で切符を買い、電車に乗り国境を超えたのだ。この時のボクは、傍から見ても誇らし気だったに違いない。そんな難しいことを自分一人でやってのけたのだから。「ふっ、この分じゃウィーンの学校で最上級のクラスに入らねば・・・」。ボクはとにかく有頂天だった。
ウィーンでの最初の2泊はユースホステルだった。ここで知り合った韓国人と息投合。英語で夜通し話し続けた。あのミュンヘンの後、別に英語を勉強したわけじゃない。なのに
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路面電車の窓から撮影。裏面電車がバスとすれ違う。ウィーンのバス、路面電車は全て赤と白のカラーリング |
何故か英語が口をついて出る。ミュンヘンで英単語とドイツ語を混ぜて滅茶苦茶に話していたのが功を奏したか。あるいは理解し難いドイツ語から逃避しようと、脳の奥深くに眠っていた英単語が突然目覚めたのか。不思議なことだったが、しかしそんなことにもボクはまた喜びを感じていた。
ウィーンの学校 (Cultura Wien) に着き、以前ミュンヘンで学んだことがあると告げた。ボクはいきなり中級クラスに入ることになった。しかし余裕な顔をしていられたのはこの時までだった。クラスに入るやドイツ語の嵐。何を言っているのやらさっぱり分からない。先生どころか生徒らの話声まで、ラジオのアナウンサーであるかのように思えた。ボクはこの 「ラジオ・クラス」 からそそくさと退散した。
しかし当時、その下には基礎クラスの最初歩クラスしかなかった。残念だったが、仕方なくボクはそこに入ることにした。ここにはボクの他に3人の日本人がいた。ミュンヘンでは日本人などクラスにいなかったのに、これは大きな違いだった。さすがに一度やっただけあって、最初の一週間は赤子の手を捻るかのようだった。しかし徐々に難しくなり、以前やったにも関わらずテストの点数は芳しくない。どうやら、やはりボクは語学に向いていないらしい・・・。
この最初の一ヵ月目のクラスでの最大の喜びは、いい先生に当たったこと。そして知り合った日本人達がとてもいい仲間であったこと。学校だけでなく、同じウィーン大学の寮には何人かの日本人が住んでいて、彼女らとも親しくなることができた。確かに、外国に語学を勉強しに行って日本人同士が集まっているのは本末転倒、と人は思うかもしれない。しかしドイツ生活丸2年が過ぎた現在
(2003/11)、冷静に思い返してみても、あれは正しかったと思う。初級コースに居る間は、先生の言っている事なんて大して分からないものだ。分からないものを分からないままに聞き流しているより、同じ境遇の者が集まって意見交換するのも、また大事なことだと思う。
やはりウィーンは音楽の都
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住人通りの少ない裏道にも美しい風景を発見できる。これもウィーンの魅力のひとつ。 |
この学校の特徴は 「語学と一緒に音楽も習おう」 というスタイル。突然ウィーンに来ても、自力ではなかなか指導者を見つけるつことができない音楽家やその卵らのために、語学学校が適当な音楽の師匠をあてがってくれる。このシステムは結構 ウケ がいいらしい。だからこの学校には、ドイツ語以上に音楽のレッスンを受けたいという人が多くやってくる。ちなみにクラスにいた日本人のうち一人はトランペット奏者の、一人はソプラノ歌手の卵。もう一人は音楽ではなく画家の卵で、ウィーン出身の芸術家に憧れてきたという。つまり、ここウィーンの語学学校には語学以外の目的で来る人も多いのだ。
おかげで全く異質な興味を持つ友達ができ、ボクには幸運だった。トランペット王子とはプラハへ旅行し、オペラのすばらしさを教えてもらった。ソプラノ姫からは音楽家の世界の厳しさを教わった。
孤独の二ヵ月目
この街の語学学校に来る人は、音楽家志望か観光目的と考えてほぼ間違いないだろう。9月になると日本の大学の夏休みも終わり、日本人の群れは波が引くかのようにウィーンを去って行く。ボクのクラスだけでなく、語学学校にいた大量日本人集団はある日忽然と姿を消した。日本人らと話し合いながら勉強してきたそれまでの毎日は一変。極めて寂しい毎日が始まった。
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ドイツ |
オーストリア |
50g |
50g |
5 Deka
(1 Deka=10g) |
100g |
100g |
10 Deka |
125g |
ein Viertel (Pfund) |
12 Deka
/ 13 Deka |
250g |
ein halbes Pfund |
ein Viertel (Kilo) |
500g |
ein Pfund
/ ein halbes Kilo |
ein halbes Kilo |
1000g |
1 Kilo |
1Kilo |
特に 125g と 250g の言い方がクセ者。この場合は大抵
Pfund と kilo が省略されるため、誤解の生じることがある。 |
寂しさがピークに達した頃、また別の日本人と知り合った。ウィーンでひたすらホテルマンの職を探す男
F氏 と、洋菓子の記事を雑誌に掲載しているというお菓子職人の卵、K さん。そういえばウィーンはザッハ・トルテを筆頭に
「お菓子の街」 でもあったのだ。それにしても、語学留学というのは大学正規留学者と違って出会いと別れが極端に多い。このとき
「あぁ、なるほどな」 とボクは理解した。始まったばかりのボクの生活は、一ヵ月ごとに出会いと別れの繰り返し。別れであっても、それはポジティブに受け止めるべきなのだとボクは痛感した。別れの寂しさに支配されてはいけないのだ。
ウィーン(1)総括
ウィーンの語学学校には、やはり観光目的の生徒が多い。これは事実だ。学校側としても授業後の
Exkursion (小旅行) に力を入れていて、客層を十分に認識しているといったところか。語学学校で教えるレベルも、ドイツで学ぶより難易度は多少低いと実感した。それはボクの通った学校だけでなく、ウィーンの学校には凡そそういった傾向が強いように思う。 またウィーンには
「ウィーンなまり」 というものがある。ボクのクラスでは標準ドイツ語の他に
"ウィーンなまり (方言)" も教えられた。例えば表に示したような度量衡についても、ドイツのドイツ語と同じではない。それはそれで確かに面白いし、ヨーロッパ生活のためにはあっても良い知識だと思う。しかしドイツの大学を目指すためにドイツ語を学ぶなら、やはりオーストリアに行くべきではないと思った。
ところが反面、ウィーンには他都市に比べ語学学校が結構多い。よって学校毎に特色があり、教える内容にも違いがある。また語学教師の絶対数も多いので、自分の担当になった先生によって授業はピンキリ。先生らの間には確実に人気競争があって、評判が芳しくないと職を失いやすい。その辺たりは教師らにとって、ドイツよりもシビアなのではないだろうか。だから厳しさより楽しくドイツ語を学びたいと思うなら
「ウィーンへ!」 ということができる。もしドイツの語学学校で一度挫折したなら、ウィーンを選択肢に入れるのも正しいと思う。語学学校毎の競争も激しいので、サービスの質自体は、ドイツの学校に比べおしなべて良いとい言っていいだろう。ボクにとっても、ウィーン留学は非常に楽しい思い出となった。
2004.01.07 kon.T
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