渡欧のあらすじ
ウィーン (2)

長引いた日本滞在
 長くとも2ヵ月以内には終結すると思われた日本でのいざこざは、結局5ヶ月間も尾を引いた。ライプツィヒから日本に帰国したのは2002年1月31日。そしてようやく日本を離れる飛行機に乗れたのは同年7月6日だった。

 次にボクが向かう街、そこは楽しい思い出のあるあのウィーンだ。前回のウィーン(1) 総括でボクは 「ドイツの大学を志望するならオーストリアに行くべきではない」 と書いた。にも関わらずこの地に行こうと考えたのは、もう一度同じ先生の授業を受けたいと思ったからだ。とにかくライプ
引越し風景
(写真不足、そのうち掲載します)

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ツィヒでは Hauptlehrerin 主教員 とうまく行かず苦い思いをした。ボクがもっとも信頼できた Sebastian の授業で、ドイツ語への意欲をもう一度復活させたいと考えたのだ。DSH試験の丁度半年前に入ったら、ドイツ国内のDSH対策クラスを持つ語学学校に転校しようと考え、ウィーンでの滞在は3ヵ月と設定した。

再びウィーンへ!
 今回もまたドイツ・フランクフルト行きのマレーシア航空に乗った。ウィーンに直接飛ばなかった理由の一つは、フランクフルトのゲーテ・インスティテゥートにいる例のジゴロに会うためだった。彼に会ったあとは電車でウィーンまで移動。つまりフランクフルトからは、前回ウィーンを訪れた時と全く同じ道をたどることとなる。ボクはすべてをリセットしたいと考えたのだ。

 フランクフルトの空港に降り立ち、ボクはまたも興奮した。憂鬱な5ヵ月間の日本滞在から一転、「またドイツに来た。大学生への新しい一歩の始まりだ」 という思いで一杯だった。周りの看板はドイツ語だらけ。いかにも「ここはドイツ!」と言わんばかりだった。電車の窓から見えるさまざまなドイツ語単語。
引越し風景、DB車内
(写真不足、そのうち掲載します)

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 「Reisebüro / ライゼビュロー か。うん、正にドイツ語の響きだ。しかしなんて意味だったかなぁ・・・。よく分からないが、しかしそれも何だか楽しいよな・・・」

 ・・・・電車に乗って3時間後、ようやく気がついてボクは青ざめた。「Reisebüro / ライゼビュロー! 旅行会社!! なぜボクはこんな基本単語を初めて見たかのような気になっていたんだ。しかも基本中の基本! 街なかには Reisebüro があふれているというのに!」。

 つまりボクが日本に滞在した5ヵ月は、それほど長かったということだ。ライプツィヒで詰め込まれたドイツ語どころか、当たり前の単語さえ忘れてしまうほど、ボクには長すぎたのだ。その瞬間ボクは悟った。「全てをリセットするために戻ってきたウィーン。しかしそのリセットとは、ドイツ語のほぼ全て。やれやれ、また初級1からの開始か・・・」。もはや自嘲するしかなかった。既にボクは29歳。時間も金も無いというのに、いったい何をやっているんだろう・・・。

再びあの学校で
 ウィーンへ立つ前から、語学学校 Cultura Wien の校長と再三メールをやり取りして 「Sebastian のクラスに入れて欲しい」 と申し入れていた。甲斐合ってそれは受理され、再び彼の元で学ぶこととなった。最初の一ヵ月は順調に進んだものの、2ヵ月目に入ったところで彼 Sebastian のUrlaub(休暇)と重なってしまった。日本滞在が裏目に出た結果となった。仕方なく2ヵ月目は語学講師 Hans の元で学ぶこととなった。この先生も非常に評判高い先生であることは以前から知っていたが、同時に比較的厳しく、無愛想な先生であることもよく知られていた。

 案の定、少し難易度の高い授業が始まってしまった。ボクにとって容易とは言い難い。3週間後のボクは授業中ひたすら辞書に首っ引きで、先生が話す単語を片っ端から引かなければ、わけが分からないというところまで来ていた。「それにしてもいったい・・・、ボクと同じレベル(のはず)の他の生徒らは何故この授業を理解できるんだ?」 。それは疑問だったが、ある時とうとうそれが問題化してしまった。

 生徒の一人がボクを名指しして「なぜフジーは授業中に辞書ばかり見ているんだ? そんなに分からないなら、このクラスは合っていないんじゃないのか?」。そんなことを言われれば誰だって落ち込んでしまうさ。確かに何となくそんな気がしていなかったわけではないが、実際に槍玉に挙げられると流石に辛い。特にこの時は丁度夏の真っ只中。各国から夏休みを利用して生徒が集まっていたため、一クラスの生徒数も異常に多かった。ボクだけでなく、クラスのメンバーも多少いらだっていたのだから、ボクを槍玉に挙げたくなったのもうなずける。

 ボクが返答に困っていると、先生が助け舟を出してくれた。「では聞くが、 explodieren を君の国ではなんという?」。するとボクに文句を言った生徒が英語で 「explode」 と言った。先生が次の人を指して聞くと、彼は 「exploto」、次の人は 「explose」。先生はクラス全員に片っ端からドイツ語の「explodieren」をそれぞれの母国語で言うよう要求した。生徒らが順に言う 「explo....」、「explo....」、「explo....」。ボクはようやく理解できた。何のことはない、彼らが辞書を見ずに理解できるのはこういうことだったのだ。ヨーロッパ語圏の言葉が似通っているのは知っていたが、ここまでとは思わなかった。

 そして先生が最後にボクに尋ねた。ボクが日本語で 「爆発する」 と言うと、周りからどよめきが聞こえた。先生が続けて説明する。「分かったか。彼らの言語体系は、我々ヨーロッパ人が予想している以上に違う。それはまったく違うのだ。彼らアジア言語圏の生徒が授業中に辞書を引き続けるのはむしろ当然なんだ。さっき誰かがコンの授業態度について言った時、私には少し軽蔑を含んでいるように聞こえた。しかしそれは大間違いだ。今ここにいるコンは、今現在の君たちより何倍も努力した結果ここにいるということを知るべきだ」。ボクは涙が出そうになるくらい嬉しかった。

自主勉強再開
 しかし結果として、このクラスに居続けることはできなかった。ヨーロッパ人と同じように勉強していては上達しないことに気づき、まずは一度総復習しなければならないことを痛感した。次の日からボクは学校を休み、早朝からマクドナルドに通う生活を再び始めた。いまいち理解できなかった文法に単語。聞き取りや発音が悪いのは十分承知していたが、まずは自分でできる文法を明確にすることからはじめた。

 毎朝6時前、学生寮前から38番の路面電車に乗って市の外れに向かう。開店直後のマックに客はいつもボクだけ。1.80ユーロ の朝マック Sweet Breakfast (クロワッサン二つの他、ビンに入った数種類のジャムを好きなだけ皿に盛ることができる) を、1ヵ月半ほぼ毎日注文することとなった。朝食としては安上がりといえないが、。これのみを注文して午後12時まで席を陣取るのだ。最低限の出費と割り切ろう。

 正午、昼食をとりに自室に戻り、午後2時から今度は市内のマックに向かう。たった一杯の1.20ユーロ(当時)のカプチーノを一杯だけ注文し、午後5時半までテキストにかじりつく。朝食に午後のコーヒー。無駄遣いだと思いながらも、席代と考えれば安いくらいだと心に言い聞かせ、学校に行かず自主勉強に明け暮れた。 (マックでの勉強に関しては別項参照)

日本人との付き合いに関して
 ウィーンは日本人に人気のある観光都市。日本人観光客が多いのは言うに及ばないが、日本人留学生もまた多い。特に夏季は語学学校生のみならず、ウィーン大学への交換留学生として訪れる人は実に多いのだ。よってボクの滞在していた学生寮には常に (夏季以外の日本人数はかなり少ないと聞く) 何人もの日本人が入れ替わり立ち代り入居していた。そんな理由で、ボクの生活は日本人らと関わることが多かった。

 実は前年同じクラスだった日本人ともまた同じ寮内 (寮の詳細は別稿参照) で出くわした。ボクらはすぐに意気投合し、食費や炊事当番を折半して暮らすこととなった。そんな我々の生活に惹かれてか、日本人留学生が一人、また一人と我々の夕食に混じり始め、最後には「夕食会」と称して最大10人ほどの日本人が毎晩のように訪れていた (もちろん食費は徴収)。それはもはや小さな日本人社会とでも言うようなつながりで、語学留学という立場を考えれば正しい生活のあり方ではなかったかも知れない。

 逆に、日本人留学生の中には日本人同士の付き合いを極度に避ける人がいる。語学留学している以上、日本語の生活に浸るべきではないのだから、その考え自体は間違っていないと思う。しかし日本人を完全にシャットアウトしてしまうと、今度は情報不足に陥ってしまう。そういう人に限って、一般の日本人留学生が当たり前のように知っていることを知らずにいて、問題を抱えることとなる。例えば・・・、

 ボクがウィーンにいた頃、日本の高校を出てすぐ渡欧しウィーンの大学を目指しているある男の子がいた。日本の高校を出ただけでは、オーストリアの大学入学要件を満たしてはいない。それで彼はウィーンの高校予備科 (Studentenkolleg) で勉強を続けていた。しかし彼はドイツ語が苦手なために実際の勉強がなかなか進まず、その時すでに2年を費やしようとしていた。実際には Studentenkolleg などに行かなくても、日本人にはすぐにも要件を満たす方法がある。しかしそれを知らない彼は馴染めないドイツ語に苦しみ、同時に外国語で高校の授業を聞くという二重苦にさいなまれ、焦るばかりでなにも進展しないまま時間だけが過ぎていくという日々を続けていた。
354 :名無しさん :03/10/12 23:20
DSH、現地のドイツ語学校に2ヶ月行って、
楽勝合格でした。
コツですが、日本で一人で充分勉強できることは
徹底して勉強しておく。
(文法、読解。添削してくれる人がいれば作文力も)
現地では、日本じゃ勉強できなかった部分を強化。
(聴解、作文力、DSHに限らず会話、運用能力)
語学学校に来ている日本人がすっごく多かったので、
DSH合格・中級修了まではごめんねといって、
お付き合いは避けました。
だって、一旦休み時間に日本語で話しかけちゃうと、
もう次からはその人たちとべったり、
「お昼どこに行く〜」とか
「今晩一緒に焼きそば作んない〜」になって、
しまいには日本人ばっかり固まってしまい、
一体何のためにドイツに来たの、
になっちゃうのが目に見えていたからです。
(ドイツに来る前に、ドイツ留学経験のある先輩に、
これは口酸っぱくいわれていました。
案の定、わたしの周りもそういう状態で、
あの人って日本人の輪に入らないとか、
裏でいろいろ言われたみたいです。
どうせ語学学校だけのお付きあいなんだし、で
私は割り切りました)

DSH合格に必要な文法力って、日本にいても十分養えます。
「2ちゃんねる - ドイツ留学総合スレッド」の書き込みより引用。
投稿者は不明。引用元アドレスは2004年1月3日現在、
http://life.2ch.net/test/read.cgi/world/1043216230/

 彼は日本人には可能な、大学への近道を知らなかった。というより日本人同士の情報交換を怠っていたのが最大の原因だったと思う。大学側が Studentenkolleg に入ることを勧めたのは事実としても、事情はその人の国籍によって大きく違う。その街の人々の言葉のみを鵜呑みにするのではなく、自分と同じように日本から留学している人々の言葉にも、彼は耳を傾けるべきだった。これは大きな教訓だと思う。

 張り巡らせるネットは大きいほどいい。知人が多いほど情報量は増えるのだから。しかしだからといって、ボクが二度目のウィーンで過ごしていたような 「日本人漬け」 というのも考えものだろう。日本人とばかり行動するのも、日本人を寄せ付けないのも共に問題。要は 「どうバランスを取るか」。何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」 である。

 余談だが、例の彼はボクがウィーンから去った後、Studentenkolleg に行かなくても大学に入れるという情報を、ボクの友人から聞いたらしい。友人によると、その情報を聞いた彼は発狂しそうになったという。ボク自身も彼とはほとんど会ったことがなかったが、もし彼がもっと以前から幅広く日本人と交流できていればと思うと残念でならない。彼は結局そのすぐ後、志を屈して帰国したらしい。

 ところで、左に引用したのは ホームページ 「2ちゃんねる - ドイツ留学総合スレッド」 に投稿された文章(投稿者は不明)。語学学校での彼は、他の日本人留学生との交流を極力避ける生活を送ったらしい。その結果として彼のドイツ語は更に上達したと、彼はそう書いている。これも一面の真理に違いない。

  ドイツの大学に入学する方法について、日本での彼のリサーチは完璧。ドイツ語に関しても彼は日本でミッチリ勉強できる環境にあった。なにより、ドイツ語力をそこまで高めてドイツにやって来た彼は正に賞賛に値する。しかし、全ての留学希望者がそのような恵まれた環境を経てドイツへやって来るわけではない。例えばボクは日本の大学を卒業したあと、留学費用を貯めるべく死に物狂いで働き、渡欧する5日前まで会社に所属していた。最初のDSH試験に挑んだとき、ボクは既に30歳だった。卒業した大学にはドイツ語学科もなければ、ドイツ語科目さえ一切勉強していない。留学希望者の事情も人それぞれなのだ。

 別稿 「ホームステイを利用すべきか否か」でも書いたが、もし語学学校でドイツ語を学んでいる自分のレベルが基礎クラスや中級クラスに入ったばかりの人なら、やはり日本人を極度に避けるべきではないだろう。もちろん、外国語を完璧にマスターするには、その言葉のみを使って生活するのが正しい。それは明かだ。ただ問題は「どの時点から完全外国語生活に切り替えるか?」ということ。日本人との交流を避けすぎず、日本語生活に漬かり過ぎず、完全外国語生活に切り替える時期を見極める。それが難しい。

ウィーン(2)総括
 まず第一に・・・・、
 「文法も単語も、その言語の中で生きていれば自然に理解できるもの」 という言葉を信じていた。しかしそれは甘い。分からなくてもいずれ分かるだろうと高をくくって授業に出ていると、いずれそこがガンになる。分からなくなったら一人になって必ず復習すべきだ。そのためなら休暇をとって、1ヵ月くらい学校を休むのもいい方法だと思う。半年以上の語学留学を考えるなら、1ヵ月分の Pause くらいは勘定に入れてプランを立てるべきだろう。今回のウィーン滞在では、そのことを痛感した。

 第二に・・・・、
学校の写真

 夏のウィーンは日本人だらけで、それがボクの 「日本人漬け生活」 をもたらしたのは間違いない。それはドイツ語を学ぶ上で良いこととは言えないだろう。ウィーンを出る時ボクは 「今後はこんな生活をしないように心掛けよう」 とつくづく思った。しかし1年以上経った今現在それを振り返って考えてみると、それもあながち悪くはなかったような気がしている。先ほど書いたように 「過ぎたるは及ばざるが如し」 は間違いないし、「日本人漬け」 の生活も確かに良くない。しかしだ、もし自分が基礎クラス Grundstufe で勉強しているなら、むしろ日本人漬けの方がいいような気がする。互いに文法書を交換し合ったり、日本語との差についての意見交換は十分にするべきだと思う。

 しかしやはり 日本人社会に 「漬かり過ぎ」 は良くない。意見が二転三転しているように思われるかもしれないが、これも一方では正しいのだ。つまりこれは中級クラス Mittelstufe 以上の段階での真実であって基礎クラスの生徒が取るべき行動ではない、と今はそう思うようになった。基礎クラスにいる間は、むしろ同じ境遇の日本人と話し合って、お互いの疑問点の克服に努めるべきだ。

 第三に・・・・、
 サマーコースについて。本稿で書いたように、ボクは最後の1ヵ月を自主勉強に費やし、学校には行かなかった。もちろんこれはボク自身の復習不足に気付いたからではあるが、理由はもう一つあった。ボクは復習のため、もうひと月同じ部分を勉強するため Wiederhören (再受講)を申し出たのだが、学校はこれをすんなり受け入れることができなかった。そして学校側はボクに、1ヵ月戻って再受講するのではなく、2ヶ月戻ることを提案した。その理由は 「夏季」 という時期にある。

 サマーコースには夏季休暇を利用した生徒が世界中から殺到するので、語学学校も満杯状態。クラス編成も異常に多く、学校は常に人であふれかえっていた。ボクが再受講を申し出ると、学校側は 「クラスに空きがない」 という。本来ならこんなことは有り得ないのだが、こうやって融通の利かないのが 「サマーコース」 の特徴なのだ。しかしボクとしては2ヵ月も戻ることは承諾できない。限られた資金と時間の中で勉強するのだ。無駄な時間を過ごしたくはない。しかし物理的に空席がないという学校側には折れようがなく、交渉は決裂。その結果として、自主勉強となったわけだ。

 このような問題は得てしてどこの学校にもある。もし無駄な時間を減らし、短期間で身のある勉強をしたいと思うなら、サマーコースは避けるべきだ。学校にとってサマーコースは言わば「ドル箱」商品なので、PRの謳い文句は魅力的。しかし学校の実態はかなりお粗末なものになる可能性が高い。これは十分に知っておくべきだ。

2003.12.04 kon.T


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