後漢書東夷伝(古墳時代) |
原文 |
建武中元二年、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す(奉貢朝賀す)。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜ふに印綬を以ってす。
安帝の永初元年、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願ふ。桓霊の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐し歴年主なし。 |
読み |
けんむちゅうげんにねん、わのなこく、みつぎものをほうじて、ちょうがす
(ほうこうちょうがす)。しじんみずから、たいふとしょうす。わこくの、きょくなんかいなり。こうぶたまうに、いんじゅをもってす。
あんていの、えいしょがんねん、わこくおうすいしょうら、せいこうひゃくろくじゅうにんをけんじ、せいけんをねがう。かんれいのかん、わこくおおいにみだれ、こもごもあいこうばつし、れきねんあるじなし。 |
出展 |
「後漢書」東夷伝 / 後漢の正史 編者は宋の范曄(はんよう)と、東晋の司馬彪(しばひよう)
/西暦432年完成 / 後漢書は全120巻 |
備考 |
・本来の原文は漢文(建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自称大夫倭国之極南界也光武賜以印綬)。
・建武中元二年は、西暦57年
・印綬は印と、それに付ける組み紐。1784年(天明4)2月23日、博多湾志賀島(しかのしま)で百姓甚兵衛の発見した金印が、これにあたるとされる。印影は「漢委奴国王」(かんわのなのこくおう)。「倭」が「委」になっている。
・安帝の永初元年は、西暦107年
・帥升の「帥」は他書では「師」 になっているものもあり
・生口=奴隷 |
入力 |
藤井正博 (三重県四日市市富州原) |